自動車部OBの方の体験談

三谷和久(みたにかずひさ)氏

卒業年:昭和56年 工学部石油化学科卒業
勤務先:トヨタ自動車(株) 技術統括部
部活動:主務として活動


学生時代の活動

昭和51年4月、入学式の前に西部講堂前でガレージに拉致され、当時の浅田主将にプラグ磨きを命じられたのが自動車部との関わり始め。当時の競技は①フィギュア②整備③ラリーの3種目であったが、ラリーをやるために毎日京都周辺の峠という峠を攻めていた。モータースポーツはとにかくお金がかかる。早朝から深夜までアルバイトで稼いだお金はほとんどタイヤとガソリン代に消えていく。
そのような貧乏部活の中でも誇れることは、7帝戦の種目を従来のフィギュアからラリーに変更したことと京大自動車部をJAF加盟クラブに登録させたこと。伝統を覆すのはOBや他大学から抵抗にあうかと思いきや、「よくやってくれた」と絶賛された記憶がある。何事も主体的に考え、企画し、一所懸命に取り組むならば相応の達成感は得られるものである。


我々の時代は何と言ってもアリタリアカラーのランチアストラトス

就職に際して

自分は化学系の学生でありながら成績は劣悪、かつ落第生(留年という言葉でカムフラージュ)でもある自分が何とかトヨタ自動車に就職できたのは、担当教授の推薦状やらいろいろな後押しもあるが、自動車部の活動を面接の場で披露できたことが大いに影響していると思う。
最近の就職活動がどのようなシステムになっているのか判らないが、最終的にはその人物の生き様が問われるような気がする。つまり単に自動車部に居たから就職できたのではなく、自動車部という組織の中で何に没頭し、何に苦しみ、チームとして何を成し得たのかという話を自分事として語れる状況が奏功したのだと思う。


いい年をしてSARDのGT500マシンを直したりしています。

就職後の仕事

入社直後は「エンジンに触れるところならどこでもいい」と面接で語ったのが良かったのか悪かったのか、鋳造工場に配属され砂まみれのエンジンに触ることとなる。そこで生産現場の省エネルギーを推進するために蓄熱燃焼バーナの開発を行っていたら、良いバーナが出来上がった。すると「そのバーナを持って起業せよ」と言われ、トヨタ自動車からスピンアウトして起業することとなった。
10年間の外回りを経て「トヨタの敷地内ならどこに帰って来てもよい」と言われ、それならば先行先端開発を覗いてみたいと思いFC技術部を希望。現在は技術統括部という部署で、燃料電池自動車の普及促進と水素社会に向けた啓発活動を行っている。人生なんてどう転ぶかわからないが、その時々に没頭できるテーマが目の前にあるのは幸せな事である。


トヨタが17年からヤリス(日本名ビッツ)でWRCに復帰します。

とりあえずTOYOTA MIRAIのラリー仕様車もあります。